無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

なっぴなつかしいな

DESTINY 鎌倉ものがたり」を見ていて私がいちばん感情移入が出来そうだったのは、最終的に負けたアイツだった。だってねぇ、何代も受け入れられなくてもそれでも一途に想い続けるだなんてなかなか出来る事じゃないよ。そりゃあ、いつのまにか行動も歪んでいくわさ…。

天使とか悪魔とか、天国と地獄とか、神と仏と閻魔とか、まぁなんでもいいけれど、そういったモチーフは時代と地域を超えてかなり共通の様相を呈する。20世紀には比較神話学と呼ばれ、スターウォーズのモチーフとまで言われたが、現実には存在しない筈の景色を心の中でなら共有できる、という感覚は誰しも持つものだ。こちらは20世紀には集合的無意識などとも呼ばれた。

さて今は21世紀だ。大した思想的変革も見当たらず、現実が精神を追い越していく。インターネットは身体感覚すら変質させそうだ。しかし、人の心が見えるようになった訳ではない。言葉が溢れているだけである。手から零れ落ちそうな程に。

ヒカルも、どうやら「DESTINY 鎌倉ものがたり」で、私と同じヤツに心がとまったようだ。同じ理由かはわからない。しかし、普遍的な物語が誰かのエゴなのだとしたら、皮肉と真心はもう大体同じになってしまう。見えるだけでなく実際にそうなりそうなのだ。

言葉が溢れ過ぎて「建て前」は風前の灯火だ。皆が名を匿って、言葉だけを各個飛ばし続けている。渡る世間は、移ろう浮き世は、建て前が動かし続けていたのに。ほら、どちらが真心で、どちらが皮肉かわからなくなっていく。愛し合う二人が結ばれましたのハッピーエンドに心から喝采を贈り、同じ顔で敗残者の想いの残りを掬い取る。ころころころころ変わるようで、それはただまぁるいボールが白と黒に塗られているだけだ。そんな風景をみせられてPop Musicに取れる差配は限られる。つまらない、という感情を歌うか、皮肉と破壊に身を窶すか。どれだけ命を懸けようと「軽さ」には耐えられない。重さに耐えられないのは現実だが、軽さに耐えられないのは、それが現実を生きる事を拒否するからだ。生きられるのに。生きようと思えば生きられるのに。生きたいのに死ぬのは重いが、死なないのに死ぬのはまさに命を軽くする行為だ。"軽んじる"と言った方が耳馴染みがいいかもね。重さも軽さも絶望でしかない。ならばと結局、神は命を与えるのだ。まだ飽き足
らずに。

これが誕生日だ。生まれてくる事、生きる事。チェロを忘れてきたチェリストを妬み、感謝する。ヒカルに「長生き」を肯定させてしまうなんて貴方は神の使いか地獄の使者か。生きたいと言ってくれるなら、それは皆に齎された最高のバースデープレゼントだったのだ。