無意識日記々

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私の特異技:惑わすこと─なるする⑯

音楽が親も同然、というのは、往々にしてこどもにとって居て当たり前でお家の掃除と洗濯をしてくれて黙って座っていたらご飯を出してくれて偶にはお小遣いもくれるような、まぁ恵まれまくってんだけどそれが当たり前になってていちいち感謝もしないというそんな存在になりがちだ、という状態が似ているからだ。「うちの親はそうじゃない」とかいわれそうだけど、これはただのものの喩えで、ヒカルのとっての音楽ってそういう存在だったんじゃないだろうか、というね。

だって、その気になればいつだってスタジオに行ってマイクの前で歌えるんだよ? ヒカルの才能に惚れ込んでいた照實さんと純子さんはヒカルが「ちょっと歌って録りたいんだけど」なんて言おうもんなら嬉々としてスタジオに同伴したはずだ。レコードや楽器はそこら中に転がっていたし音楽は手に入れようとすればいつでも手に入れられた。親の愛情のようなものだった、と。

これ、「親の愛情のようなもの」をヒカルに与えてくれていたのが親なところがこの喩えの分かり難さの原因なんだけど、だからこそヒカルもその点は曖昧だったのではないか。親と音楽が融合してしまっているのだ。

だからヒカルの音楽に対する態度は親に対する態度に相似する。思春期の多感な頃は「いつまで音楽をやるかわからない」「嫌になったら辞める」と反抗期な事を言っていたし、成熟した大人になって素直に親への愛情と感謝を口に出来るようになってきた頃には音楽に対しても態度を明確にするようになってきた。ヒカルが音楽を家業と呼ぶのはそういった曖昧模糊な結び付きが根柢にあるからなのではないだろうか。

そして、親を喪った時には音楽を喪った。暫く曲が書けなくなった。それが今書けるようになったのは、今度はヒカル自身が親になったことが大きい。つまり、今のヒカルは音楽になりつつある。息子に「当たり前すぎていちいち感謝されない」幸せを振る舞って日々暮らしている。ダヌパが家業を継ぐかどうかは別として、なんだか少し安心である。