無意識日記々

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コウモリのコスプレ

この間【今日は何の日宇多田ヒカル】で『さきほど、生まれて初めて、みそ汁を作りました!』という内容のメッセを紹介した。2009年なので11年前のだ。

人は味噌汁を初めて作ってから11年もすればこどもを連れ立ってコウモリのコスプレでママ友と交流するところまで行くんだなぁと妙に感心してしまった。いや、そんなの明くる日でも有り得る事ではあるのですがね、生まれて初めて味噌汁を作ったのが25歳の時だったというところからすればなかなかに「思えば遠くへ来たもんだ」なのではないかとな。

自転車にまともに乗れないとかもそうだけど、早熟過ぎてあれやこれやと抜けが出来てたから人間活動で色々と補完したという流れは周知なのだが、では何がどうなったのかと言われると皆知らない訳でな。ぶぉっと結婚してすぱっとこども産んで今ロンドンで育ててる。『KUMA POWER HOUR』のリスナーだったのなら、ある程度は「こいつイギリス在住らしい選曲もするな」みたいなことでなんとなく空気は感じ取れてたかもわからないが、そういう嗅覚の無い人(ってファンの99%はそうだろうな)は、どうにもヒカルの生活感が掴みづらいというか、ミステリアスではないにしろなんだかいつの間にか「おかきとかも食べるんや」に戻ってしまっていたのかもしれない。

なのでこうやってテレビに出てふらっと「日々」の垣間見れる所を囁いてくれると急に距離感が修正されて驚く。いや、言われてみればそうだよな、それくらいするわな、という。誤解していたというより、どこらへんにイメージを置けばいいかそもそもわかっていなかったというか。

なんでそんな人の書く歌詞がこれほど多くの人の心を打つのか、冷静に考えると非常に難しい。どこから「共感」を生み出しているのやら。「テレビの局がわからない」とかテレビっ子からしたら凄い乖離よ。あたしもアナログ放送時代は一瞬でも映れば使ってるフォントと色調整で即座に放送局を言い当てたもんだ。それは極端だが、生活の近いところも遠いところもありつつ、特にファンタジーでもない歌詞が胸を打つというのは、例えば小説では難しい。ディテールを描く事でリアリティを担保したりするのだから。実在する地名を出したりね。ヒカルの歌はそれをしていない。

「香水のような作詞術」っていうのは、そういう、具体的なディテールではなくて、言葉そのものの手触りをうまく使うことを指しているのかも……とか思いつつ前回の続きはまた次の機会にね。