無意識日記々

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アッーと驚く私だけのモナ・リザ

へぇ、札幌地裁で同性婚訴訟に違憲判決、か。婚姻を規定した憲法24条についてではなく、法の下の平等を謳った憲法14条について、ね。慎重ながらも踏み込んだものだ。技巧的とも言えるか。

自分は、結婚とかいう2人に限定した関係に留まらず誰でも「家族届け」みたいなものを出せればいいと思うし苗字なんてその都度作ればいい(勿論継承してもいい)と幼少の頃思ったまま今迄変わらず来てるので、はてさて生きてるうちにそこまで行くのかなという物見櫓な無責任さなのだけど、なんか前に進んだようなのでそれは勿論喜ばしい。まぁ地裁判決なんてすぐ覆されてしまうものだがそれを今日言うのは野暮だろう。…ほんと野暮でごめん。

で。ヒカルの歌の歌詞に親しんでいれば同性同士の恋愛の機微に通じていないとサッパリ共感できないものも出てくる。『ともだち』なんてそうだよね。

新世紀エヴァンゲリオン」でも、シンジとカヲルという日本で最も有名なうちのひとつの同性カップリングがある。『Beautiful World』をカヲル視点から読み解くのも楽しい。シンジ側…は無理があるかな。わかんないけど。シンエヴァではこの二人のカプへの踏み込み方が浅かった為そこにご執心な向きには物足りなかったのではないか。それを言うならこっちだってリツコ×マヤのカプへの掘り下げがなくて不満だったりするが今日は七森中☆ごらく部10周年企画が発表されたので私は頗る機嫌がいい。同性愛万歳。いや異性愛者にカテゴライズされるであろう私に言われても嫌がられるかな。これまたすまぬ。

ヒカルが『私だけのモナ・リザもうとっくに出会ってたから』と歌う時、多くの人が母親である藤圭子を思い浮かべたであろう。また、あのミュージック・ビデオを観て「私だけのモナ・リザ宇多田ヒカルだ」と改めて確信した人も多かろう。だが、ごく普通に『One Last Kiss』をラブ・ソングとして聴いた時、即ち、シンエヴァの主題歌という設定やら宇多田ヒカル藤圭子の物語やらといった背景を知らずに聴いた場合、この歌は「女性同士の恋愛」と捉えるのが自然だろう。モナ・リザは女性だし、歌い手であるヒカルが女性だから歌声も女性だし、一人称は『私』だし、『もひとつ増やしましょう』といった口調も女性的だし、そういう解釈になるだろう。無論シンエヴァの登場人物の誰それに当て嵌るといった議論はどんどん必要なのだが、それ以前にこの歌はラジオから流れてくるポップ・ソングなのだから、そういった「素直な解釈」から逃れることもまた出来ない。繰り返しになるが、この歌を自然に受け止めた時この歌詞は女性同士の恋愛になり得る。

その観点からみると、この『One Last Kiss』のミュージック・ビデオはその『モナ・リザ』に当たる人が視ている風景である筈だ。だって、画面の中のヒカルが『私だけのモナ・リザ』って歌ってるんだもの、ヒカル自身はモナ・リザじゃない。

とすると、ヒカルがこちら側つまりカメラ目線をくれている時は過去の思い出のスナップショットで、こちらを見ていないカットの時は、そう、モナ・リザにあたる女性がもうヒカルの目の前には居ない状態であるはずなのだ。『忘れられない人』になっているのだものね。第一、ヒカルがあんなに愛らしい表情を連発する相手ってヒカルが好きな人に決まってるっしょ。ねぇ。

となると、そのヒカルがこちらをみていないときのショットって、モナ・リザさんが幽霊ポジションに在るという解釈になる訳で。そのつもりでこのミュージック・ビデオを観返すと切なさ三割増になったわ。いやホント、素晴らしい楽曲、素晴らしいミュージック・ビデオです。改めて感服致しましたとさ。