無意識日記々

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傷つけ傷つき

昨晩Instagram更新か。ほっと一息つけるね。生存確認。

今回は久々に「道に絆創膏」。「地球を治そう」というメッセージなんだろうかね。小さい子が逆立ちして「今俺地球を持ち上げてるんだ!」って燥ぐヤツを思い出す。もっとシンプルに道の傷を癒してるだけでもいいんだけど。

傷を治すというタームは『For You』の『傷つけさせてよ 治してみせるよ』の一節を思い出させる。そこから20年経過した『誰にも言わない』では『永久に傷つきたい』と言い切った。ここまで踏み込んでこれたんだなと感慨に耽ける。

しかし、そもそも「傷」とは何かを考え始めると難しい。辞書には「筋肉や皮膚が裂けたり破れたりした部分」「心などに受けた痛手」とある。ここでいうヒカルの歌詞の『傷』は心の痛手の方で、つまり、インスタライブで語っていた「そもそも心にあるもの」であったりする。人との関わりの中で『傷つきたい』というのは、関わりの実感としての痛みと、本来内在している痛みの両方を受け容れる意志の宣言だ。両方といっても、そもそも同じことなのかもしれないが。

この、踏み込んだ『傷つきたい』という言葉は、特に傷つくことに敏感な、傷つくことを恐れて生きる人には衝撃的で、甚く戸惑ったかもしれない。殆どの人にとっては、ということになるか。

独り言になるが、愛というのは好き嫌いを超えた所にあって、好きなものを愛せるのは当然のことながら、嫌いな存在を愛する事もまたある。ならば、心地よいものを愛すると同時に、痛みを伴う物事を愛する、慈しむ事もまたあるのだと思う。ヒカルは、カマシ・ワシントンが「違いは寛すより祝おう」と宣うMCに感銘を受けた。自らの価値観や嗜好との差異は断絶や決裂、違和感や嫌悪感、攻撃や忌避などを齎すが、それを寿ぐことは何ら矛盾した行為ではない。

ただ、『誰にも言わない』で歌われているのは、特定の特別な相手との関係性だ。ここでの傷つけ合いは、宇宙や人類を相手取るカマシ・ワシントンの壮大さよりももっと身近で然り気無い。とはいえ『好きな歌くちずさ』む歌なので、まずは好きが前提にあるのだろう。絆創膏を貼って『治してみせるよ』と嘯けるのは、まず目の前のことからなのだ。