無意識日記々

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視聴者として納得できるか

主題歌発表で盛り上がっているけれど、相変わらず映画自体への期待は難しい。エヴァ本体自体の問題ではなく、周りのレベルが上がり過ぎているのだ。

御存知(?)「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の劇場版は興行収入20億円を超えて歴史的な大ヒットになりつつある。その数字自体より、そこまで有名になったせいで生じる送り手側受けて側への影響が大きい。多くの消費者が「今のアニメはここまでできるのか」と知ってしまった。我々は知らず知らずのうちに評価の基準値を上げてしまっている。幼少の頃あれだけ楽しんで観てたアニメたちの作画、今の目で見たらしょぼいことこの上ない。…アナログならではの情念みたいなものはあの頃の特徴ではありますが。

その上がった基準の中にエヴァは放り込まれる。エヴァ自体、今のアニメの隆盛の片棒を担いだ歴史的作品である事は言うまでも無い。因果関係は兎も角、エヴァの再放送が深夜に行われた頃から「深夜アニメ」というカテゴリーが非常に分厚くなっていき、そこからひたすら進化し続けてこの度「鬼滅の刃」という日本映画史上最も有名な作品を生み出した。四半世紀というのはそれだけの年月なのだ。

クォリティの面では「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」で目の肥えた観客たちを相手にせざるを得ず、数字の面では「鬼滅の刃」とどうしたって比較される。まぁ、炭治郎くんは突出し過ぎててそれもどうなのとなるかもしれないけれど。「千と千尋の神隠し」すら抜き去りそうってんだから。どうなってんだ。

つまり、映画を真面目に観る人も観ない人も、たぶんおそらく「シンエヴァ」に対する目線はかなり手厳しい。今まで何度となく目にしてきた「主題歌はいいんだけどねぇ」の一言をまた耳にする事になるかもしれない。

ヒカルは6年半のギャップを作ったが、帰ってきた時にはなんだかんだで最近のサウンドにしっかりアップデートされていた。ちゃんとリスナーとして過ごしていたんだろうなと思わされた。ただ、『桜流し』はそういう時代性から離れた所に在ったので、超然的な評価に流れやすかったとは思う。

斯様に、新曲の出来については心配する気にならない。もっと言ってしまえば、映画がどこまで低評価であってもそれに引っ張られずに「でも主題歌はいい」と言ってもらえるであろうという「自信」がある。それくらいに、22年間かけて築き上げてきた実績は凄まじい。

勿論、映画の出来が良ければそれはそれで大変嬉しい。だが、単純に、今までのエヴァンゲリオンを総括するのに映画一本ではまるで足りないのだ。二時間やそこらで納得して終われる未来が見えない。何をして貰ったらいいのかわかんないのよね。

ジャケットを原画で固める事で、宇多田ヒカルもこの“祭り”にどっぷり関わる事が宣言された。いちばん気になるのは、でも、エヴァと共に歩いてきたヒカル自身が、映画の結末に納得出来るかどうかだ。残念ながら最早送り手側の為、本音の部分での評価は発言される事はないだろうけれど、この仕事を引き寄せたあの熱い語りを、その時以上の熱量でまた聞かせてくれたら、それが真の意味での完結になる気がしている。封切まで、あと6週間ですね。