無意識日記々

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「何気ない一言」の思わぬ重さ

その5年前の「VOGUE JAPAN」2017年8月号で印象に残っているのがヒカルのこの発言。

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でもこういう仕事を始めて、ああだこうだ言われるようになって、デビューして最初の頃はウェブサイトを通して送られてくるメールに全部目を通してたんですよ。そうすると、本当にひどいことを言う人もいるし、適当なことを言う人もいる。もちろんちょっとうれしいことを書いてくれると「ああ、うれしい!」ってなるんですけど、いやな言葉って、パッと目で見るとすごく毒されるじゃないですか。いっぱい素敵なことを送ってもらって「うれしい」って思ってたのに、一通だけ変なのがあると、それがずっと残って、体に変な影響を受けるなぁって思う。そんなの、深く考えて練って書いた言葉ではなく、誰かが暇つぶしにさーっと打っただけの言葉なのに、それも怖いなぁと思った。自分が発する言葉が人を傷つけてしまったり、誤解されることもあるから、気をつけないとなって。昔だったら、手紙とか電報とか字数も限られていて、いろいろと考えて書いていたけど、今は文字制限ってあんまりないから。

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いやぁ、なんだか身につまされたよこれ読んだ時は。Mail To Hikkiしたことのある人なら誰しも一度くらいは「もしかしたら余計なこと書いたかも」と不安になった事があるんじゃないかな。私は毎度だった。(全く笑えない)

で、最近のヒカルは、誹謗中傷や悪口や辛辣な非難なんかに関して、このように『そんなの、深く考えて練って書いた言葉ではなく、誰かが暇つぶしにさーっと打っただけの言葉』だと言った後に「だから、その手の言葉は気にしないで」と説諭をしてくれる。桁外れの(1日700通のメールだぞ? 140字のツイートじゃないぞ?)メールを読んできた人だからこその説得力でこう諭してくれるのだから、人からのネガティブな言葉がこのヒカルの助言によって気にならなくなった人が多く居てくれてたりしたら、ヒカルも助言を送ってる甲斐があったってもんだ。

でも、それでもやっぱり人に何か悪いことを言われたら気になって仕方がないという人も在るだろう。99人に褒められてもたった1人に罵倒されたらその99人の賞賛が塗り潰されてしまうような、そんな悔しい思いをすることも、あるかもしれない。ヒカルが気にしないでいいよ、と言ってくれてもそれでもやっぱりね、と。

私はこれについては持論がある。持論というからには検証されたものでもなければ確信がある訳でも無いただの仮説なのだけど、取り敢えずそうなのではないか、と思っている。

悪口とか誹謗中傷というのは、ヒカルの言う通り

「深く考えて練って書いた言葉ではなく、暇つぶしにさーっと打っただけの言葉」

なのだ。それは事実だと思う。そして、だからこそ気になるのだと。その悪口を言った人自身の心から出たのではない、出所のあやふやな言葉だからこそ、その人ではない何か他の、時にはもっと大きな何かの言葉のように思えて不安になるのではないだろうかと。

世間という場では、当然ながら「人を褒める事が良しとされている」。勿論それと共に「人を悪し様に罵るのはなるべく控えるべきだ」という道徳も共有されているだろう。なので、残念ながら、常に悪口の方が説得力がある。奨励されていないからこそ、それがわざわざ口に出される時は真実だと思われてしまうのだ。陰口や噂話の方に妙に信憑性を感じてしまうのはこの為だ。

同時に、褒め言葉は嘘だと思われやすい。それが推奨されているから、本心がそうでなくても上辺だけで言う可能性が出てくるからだ。故にそういった褒め言葉は「おせじ」と呼ばれてスルーされるのが常だ。「御世辞」、世辞とは「世間の(嘘かもしれない)言葉(辞典の辞だね)」の事である。

このバイアスがまずあるから、99の美辞麗句はたった1つの誹謗中傷に負けることがあるのだ。

そしてもうひとつ、ここが肝心なのだが、その悪口や誹謗中傷は、その人が深く考えずに発しているほど、世間の声を反映していると解釈してしまう可能性が高まるという話。(これが私の“持論”だね)

なぜなら、深く考えずに発した言葉とは、大抵の場合、「どこかで誰かが言った言葉」をそのまま繰り返しているだけだからだ。受け売りってヤツだね。だから、心がこもってない言葉ほど、その人の気持ちから生まれた言葉ではなく、その人がどこかで聞いてきた言葉や感情を反映している感覚が強まる。悪口を脊髄反射って言うこと多いけど、そういうことやよね。単なる反射や一瞬の反応で出た言葉。

ぶっちゃけ、物凄く個性的で、その人からしか発することの出来ない独創的な悪口というのは、「…ちょっと待って、そこまで私のことよく見て考えてくれてるの? ひょっとして私のこと好きだったりする?その裏返し?」と途中から思えてきてしまうことがあったりなかったり。心からの悪口は、案外絶賛に近い事があるんよ。いや結局ムカつきはするんだけどね。

一方誹謗中傷ってのは、掃いて捨てるような無個性な、何度も見てきたような誰でも言える言葉ばかりが並ぶ。この「誰でも言える」言葉が「私というたった一人」に幾つも幾つも大量に集中して向けられた時、私は、誰か特定の個人からではなく、社会全体や世間全体から拒絶された感覚を味わうのだと思うのだ。それはまさに、自ら命を絶ちかねない苦痛なのだろうと察したい。四面楚歌ここに極まれり、なのだから。

繰り返す。誹謗中傷は、「深く考えずに発せられた言葉」であるからこそ、まるでそれは「世間全体から放たれた言葉」であるかのように響いてしまう。例え実際には全くそうでなかったとしても。

こういうのは、普段の何気ない日常でも起こり得る。道端を行く人が自分を指して「ダセぇ格好してるな」って言ってるのを小耳に挟んだら、普通に友達に真正面からダサいと言われるよりやたら傷つく、みたいなことはないだろうか。(言ってる意味通じるかな?) 年に1回しか会わない親戚のおばちゃんに「あんたそんなことではあかんでぇ」って言われたら、毎日お母ちゃんに叱られてるのよりずっと傷つくことってない? なんというか、道端を行く人も、親戚のおばちゃんも、めっちゃ軽く言ってるのよ。毎日心底叱ってくれるお母ちゃんに較べたら私に対して何の思い入れもない。そんな人が深く考えずに言った言葉が妙に刺さって、ササクレに挟まった小さな棘みたいにいつまでも抜けずに痛み続ける、みたいな事がある。それは錯覚かもしれない。いや、錯覚であることの方が多いかも。そうなってしまうのは、無意識のうちに、それらの無責任な言葉が、無責任だからこそまるで世間全体の見解のように感じられてしまっているからなのではないだろうか。

兎に角私がこの持論で言いたいのは、錯覚であれ何であれ、誰かの浅く軽い言葉を世間の言葉と受け止めてしまう心の作用が人間にはあるかもしれないから、そういう「何気ない一言」がずっと気になってしまうのは何ら不思議なことではないし、結構真剣に対策を取らないと、トラウマになって何年・何十年と人生を邪魔してくるかもしれないから、くれぐれも軽い言葉を軽視せず、真剣に向き合って、解きほぐすも良し、捨てたり逃げたりするも良し、兎に角何らかの対処をした方がいい、軽く見て放置するのは良くない、と、そう言いたい訳なのでした。珍しく(?)主張の激しい日記になっちゃったな。書いてしまったので残しとくけどさ。