無意識日記々

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AI絵師の話で音楽家が心配する事は無い。

「AI絵師」なんて言葉を聞くのも珍しくなくなった。簡単なテキストを幾つか入力するだけで「今までこの世に存在していなかった絵」をAIが勝手に描いてくれる機能だ。改良されていけば絵師の仕事を奪うのではないかと危惧されてるんだとか。

新しい技術が旧い技術に基づいた職業を駆逐するのは、良し悪しは別にして昔からずっとあることだが、「絵を描く」という、「車を運転する」とか「早く正確に設計通りに成型する」とかの仕事に較べてずっと「人間ならではの」「機械には出来ない」仕事だと思われていたものが脅かされるというのがニュース性を高めているようだ。

絵画はそうだとして、音楽はどうなの?と思われた方もあるかもしれない。こちらはもっと昔から機械による作業が蔓延っているが、特に仕事を脅かされている事実は無い。例えば編曲。何十年も昔から、鼻歌一つ入力するだけでそこからロック風やボサノバ風、クラシック風など好きなように編曲を編纂してくれる機能は存在して皆使っているが編曲者が失職したとか数が減ってるとかの話はきかない。せいぜい編曲の苦手なアマチュアが助かっている程度だろう。

理由は単純で、表現方法は機械が代替できるようになった途端に陳腐化するからだ。プロに求められるのは"その都度"アマチュアを上回る煌めきを作ることなので、出来る事はとっとと機械にやってもらって、"その都度"新しいものを生み出し続けるのがアーティストに課せられた使命。それは機械が無い頃から変わらない。その時代その時代で非凡庸な仕事を常に求められるのがこの手の職業なのだった。

当然だが、宇多田ヒカルクラスになるとそんな機械など足許にも及ばない。その上本人が機械を使うのに何ら偏見をもっていない為、軽々とその上限を見極められ常に瞬時に上回られるだろう。大体、今の機械は設計図通り(プログラム通り)にしか動かない。本質的に予測不可能な人間や自然を相手にしてそれすら包み込んで作詞作曲を施す人外的アーティスト(ここらへんの話が先週の主題だった)が、たかだが玉の多めな算盤程度の道具を恐れる筈も無く。「あら便利ね♪」といってこき使われるのが関の山だろう。

アートで期待されるのは予測可能性ではなく予測不可能性だ。その上で現時点と連続であって欲しい。ただ滑らかなだけでもなく、ただぶっ飛んでるだけでもなく。繋がってはいるが見通せない、見通すことの出来なかった何かをこの世に初めて生み出す責務にとって、AIは便利な道具でしかなく、ライバルになってくれそうな未来はこのままでは一向に見えてこない。それについて安堵してもいいし落胆してもいいけれど、そういった展望を持っていない人たちの議論に目を通すほどつまらない時間もそうそうはない。そんな暇があったらYouTubeやサブスクを開いて適当に流れてきた曲に耳を傾けてる方がよっぽどいい歌に出会えるだろう。結局判断するのは最後に歌に触れるリスナーであるあなたの心でしか無い。実際にその都度聴いて見極めていけばいいだろう。