無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

×

ううう、前回のタイトル、煽るつもりは全く無かったのについつまらない駄洒落を思い付いてしまったが為に採用してしまった。あんなこと言いたかった訳じゃないのに。でも対話型AIって前回言ったように漢字変換機能の上位互換だから駄洒落は結構得意だろうね。いいのを拾っていきたいわ。

歳を取れば取るほど…というと「老いるほど」と読まれかねないか、「経験を積めば積むほど」とでも言い替えればいいかな、「純粋な利得」というのは駄洒落なのだと痛感していく。一般化すれば「無関係且つ別の法則で各々営まれていたもの同士が重なる」現象だ。最早「面白い」の定義はこれでもよいくらい。

この間の「努力への応酬を求めてはならない」の話に出てきた「ごっつぁんゴール」もそうなんだけど、たまたまそこに居合わせて複数の文脈が交わった時にそれを手に取れるかどうかで人生観が変わる。やらない奴は虚無る。交わらせる事を工夫といい交わった結果を知恵という。知恵と工夫は日本語圏で軽視されがちなのは科学技術関連予算の長年の削減で皆さんもよく御存知の通り。

なので、宇多田ヒカルお得意の「歌詞のダブルミーニング」の数々の応用の基礎は駄洒落なのだ。「あ、この単語とこの単語は韻を踏むな」という気づきの延長線上に、例えば弔いと恋を重ねた『真夏の通り雨』は生まれるのだ。郷愁と改新を同じフレーズで綴る『Goodbye Happiness』もそうだね。

私が「駄洒落に冷たい人は嫌い。駄洒落に厳しい人は好き。」と言うのも、それが価値の根源だからだ。あクマでも私からみて、駄洒落に冷たい人はどれだけ財産を築こうが名声を博そうが、つまらない人間にみえるし、幸福にはとてもみえない。当人がどう思ってるか知らないけど。というかそういう人は視界に入らなくなっていくから知る由もないと言った方がいいか。

『まじ?フジ ・・・・・ケイコ。』という“禁断のネタ”を嬉々として使って大笑いするヒカルは駄洒落に対して本当に優しい。…ってこれ、1999年当時フジテレビのキャッチコピーが「マジ?…フジ。」だったの知らないと何もわかんないよね24年前の話だもんね。

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_111.html

いやホント、優しいよねこういうネタに。自分から率先して突っ込んでいくんだから当然っちゃ当然だけど。全く別の事柄が交わる地点を見逃さない、っていうのは、本来の文脈から外れて「道に落ちてる」ものを見つける能力そのものだなぁと今更乍らに感服しているのでありましたとさ。