無意識日記々

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To My Main Core

結論から言ってしまえば受動的な、受け身な「私」はたったひとりに収束する。能動的な「私」はその能力の多様多寡によって幾つにも分かれていくのとは対照的に。

その話を真面目にしようとすれば一冊の本が書ける…どころか一生書くことに困らないほど語る事はあるのだけれど、ひとまず、どうやらそのようだ。

確かに、普段の受動的な「私」は様々な事柄に関して様々な反応を見せる。喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだり。ずっと不貞腐れてたと思ったらヒカルがツイートした途端にゴキゲンになったりね。同じひとりの人間とは思えないくらいに、受け身な「私」は多様な異なった反応をする。

しかしそれは、逆に考えるべきで。「私」にとって、多種多様な事柄を受け取るから多種多様な反応を示すだけで、その多様性を捨象していけば純粋にただそこに居るだけの「私」が炙り出されてきて、確かにそれはずっと同じ「私」なのですよ。

この話の切っ掛けは「ヒカルに対して自分と同じ様な感情を持つ人のことを気に掛けたい」という事だった。自分にとって役に立つとか何かをもたらしてくれるとかそういう功利的な価値観ではなくて、共感すること、してくれること。確かに、気の合う人というのは、同じものを見て聞いて嗅いで味わって触れて同じような感情を持つ人のことを言う。自分が怒ってるときに隣で同じものをみて笑ってる人がいたら「この人とは合わないな」って思うでしょ。

逆に、そこさえ同じならその人がどんな能力をもってようが持ってなかろうがあんまり関係ない。寧ろ、自分とは異なる能力を持っていてくれた方が有難いもんね。ヒカルが身につけたモノを見つけてきて実際に購入して身につけて見せてくれる人とか私は堪らんわ。自分に出来ないことだからねぇ。性別も違うしさ。感性は同じで、出来ることは違う。理想的。勿論、何も出来なくても感性が通っていれば仲良く出来るから何の問題もないとは昨日述べた通りですよ。

それに、何かに対する受動的な反応って自分では「どうしようもない」事が多い。お年玉をくれる親戚に「あなたのことが好き」と言った後にくれなくなったら「好きじゃなくなった」と言うのは自分の自由に出来るけど、心の底から好きになった相手に対してはそんなことは出来ようも無く。本当に自分の自由にはならない。心の底の底から来れば来るほどそうなる。底に行けば行くほど「自分には変えることが出来ない」ってことに気づくんだ。そもそも、何かを好きという感情って本音では否定したくない筈だからね。そんな気がまず起こらない。

物事に対してより純粋に受動的になっていくにつれどんどん変えられない「私」が抽出されていくとすれば、それは必ず単一の「私」に収束していく。だって、もしそこに、能動的な能力を発揮する時のようにあんな私やこんな私が居るとすれば、私はその中から今の私を選ぶことが出来るんだから。選べるとは変えられることだ。だから、変えられないなら選べない。選べないけど間違いなくここに「私」は居る。だったらそれはゼロじゃなく、たったひとりの「私」がここに居ることになる。

実際、受け身な人って何も変えられないから受け身と呼ばれるんだし、積極的で能動的な人は何かを変えられるから重宝される。そして、何かを変えられる人はそれだけ物事を選ぶことが出来るから、発揮する能力によって表現される「外側の私」はどんどんと増えていく。感動的なメッセを綴る宇多田ヒカル、MCで辿々しく語る宇多田ヒカル、落とし物の写真を撮ってアップする宇多田ヒカル、オールストレートAの成績を取る宇多田ヒカルテトリスカンストする宇多田ヒカル、ステージでかっこよく歌う宇多田ヒカル、部屋のベッドで寝転んで歌詞を練る宇多田ヒカル、全部それぞれに違う性格なのはそれだけ能力が多岐に渡っていて異なる「私」を選ぶことが出来るからなんだけど、何かを働きかけようとせず、ただ何かを感じとるだけの「私」は、最終的には選べない変えられないからたったひとりになっていくのよ。

そして、ここまでが理解できればヒカルが『40代はいろいろ♫』で言っていた

『人間が感じる感情はみんな同じ』

というその「信念(My Main Core)』について、少し理解を深められるかなと思う。次回はやっとその話だ! 長かった…ここに辿り着くための1週間だったのよ今週は。