無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

It's Automatic Pencils !?

うぉまた深夜のインスタ投稿があったのね。最近読んでる本二冊、といったとこか。一冊はアメリカの芸術家フィリップ・ガストン、一冊は同じくアメリカの写真家アニー・リーボヴィッツの一冊。門外漢なので特にコメント出来ることもないけれど、昔から手に取る本の傾向は一貫してる感じね。

こういうのを仕事に結びつけて見るかどうかは微妙なライン。アーティストってのは生き方だから仕事とプライベートを分けて考える事自体がそもそもナンセンスということもあるんだけど、音楽家相手なら著書を読むくらいなら音聴いた方が早いとかもあるし、紹介された本から何を読み取るかってバランスが難しい。アウトプットに結び付かないからこそ娯楽として気楽に楽しめるって側面もあるしな。

なのでどちらかというと日曜の夜は読書をして静かに過ごしてますよというメッセージを受け取るのがシンプルでいいのかもしれへんな。

となると、本二冊の周りにあるモノ…ペン、眼鏡、石?、グラス??なんかにも目を向けたくなる。ヒカルさんのリラックスタイムを彩るパーツの一つという意味では本二冊と意味合いは同じだろう。

特にペンを写してる自然さは何なのかな。読書してる時は気がついた事があったらメモを取るのか、或いは本自体に書き込むのか。

「読んでる本に読んでる人の字を書き込む」っていう行為に私は抵抗があって。本に書かれている事は著作者の思考であって私の思考ではないからそこに踏み入りたくないというか、自分の字がそこにあることで混じり気が出るのを嫌っていたわ。小さい頃の話ね。

これ、そうなると私からは推測になるのだけど、本に手書きで自分のメモを書き込む人って、目の前に本という実体があり、それを自分が読んでいる以上、この本を自分が読むという読書体験は最早自分のものであって著作者のテリトリーから離れていて既に「自分の世界」の一部であるからそこに自分の書き文字が現れても何ら違和感がない、という風にでも捉えているのであろうかな。意識的であれ、無意識的であれ。

あたしも教科書に落書きはしたけどね。あれはもう完全に存在自体を茶化してる行為なので…まぁでも批評精神と言えなくもないか。顔写真を加工するのは権威に対する…いやそれは考え過ぎっすかね。

ともかくともあれ、ヒカルさんは読書をする時にペンを執るようだ、というのはひとつの示唆になる。これが消える鉛筆なのか消えないポールペンなのかも大事だったりするけれども消えるボールペンもあるからややこしいな…。

でも、他者の作品に対して自分がその作品を体験した経験を「どこにあると位置づけるか」って結構重要な事柄な気がするので、今回の写真にペンが写ってるのを見れて私は大変よかったですよっと。