無意識日記々

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「スタジオ版編曲人力再現」企画としての魅力

こうやってスタジオ盤の『BADモード』と『LSAS2022』を聴き較べてると、同じ楽曲でも随分と送り手側受け手側双方の意識が異なることがわかる。演奏メンバーはかなり重なっているのにも拘わらず。

スタジオ版というのはいわば宇多田ヒカルの脳内を覗いているようなもので、サウンドは目の前に拡がる景色だ。ひとつひとつの音が要素となって全体の風景を象っている。一方、スタジオライブ版の方は、出音ひとつひとつが1人の人間の存在を示唆する為、風景に奉仕しているというよりは、ひとつひとつの音がコミュニケーションをとって、全体としてネットワークを形成しているように見える。スタジオ版の主軸が「受け手側の感じる意識(その人の脳内に浮かび上がる風景)」ひとつに集中しているのに対し、スタジオライブ版では主軸が「ひとりひとりの演奏者」にフォーカスしているように受け取れる。主軸が幾つもあってそれらの繋がりで形成されているイメージだ。

そうなってくると、ヒカルのヴォーカルもその中のひとり、という意識が立ち上がってくる。特に、センターマイクの前に立ってひとりだけ声を出しているというのは大きい。相変わらずバックコーラスは録音した自らの歌声を再生しているのだが、スタジオ版では総ての声部が渾然一体となって全体の音像の印象に貢献していた一方、このスタジオライブ版では、真ん中のヴォーカルが今目の前にいるたったひとりの歌い手であり、録音再生しているバックコーラスはその添え物に過ぎないという明確な「主従関係」が在する。どれだけ声を重ねても主役はひとりなのだとスタジオ版よりも高らかに主張している感じ。

故に、映像無しで音だけで聴いていても、「目の前に宇多田ヒカルが居る」という感覚が、スタジオ版のそれと較べても圧倒的に強い。更に先述の通りエコーをはじめとした種々の声の加工は最小限に抑えられている為、その生々しさは思わず息を呑むほどである。

そこには呼吸がある。歌以外で明確なのはドラムとパーカッションだろうか。他の楽器以上に、そこに人が居て熱と息を吐いてカラダを動かして叩いているイメージが明瞭に運ばれてくる。このボトムの強さとリアリティはスタジオ版にはなかった。や、いちばんリアリティがあった『気分じゃないの(Not In The Mood)』が演奏されてないから、比較するのはフェアじゃないんだけどね。

斯様な事情がある上で、彼らは彼らで演奏上のコンセプトを「あの複雑怪奇なスタジオ版のアレンジをどうやって極力人力のみで再現するか」に設定している為(端的に言って変態ですね)、彼らがアレンジに成功してスタジオ版とスタジオライブ版の楽譜上の相同が強調されればされるほど、よりそのスタジオライブ演奏という形式の醍醐味がシンプルにクリアに浮かび上がってくるという構図になっている。これに「皮肉にも」という枕詞をつけるのもいいが、寧ろよりこの企画の意義が強調されてよかったと言った方がいいかもしれない。

いつもは「またバックコーラスが録音か」と溜息をつく私だが、この、職人達の本気の「スタジオ版アレンジ人力再現」への情熱によって、ヒカルの真ん中のたった1本の歌声がより強調される結果となり、なんだろう、添え物化したバックコーラスに可愛らしさを感じてしまって結構気持ちがいいのです。それだけセンターでの歌声が素晴らしいってことなんだけど、ホント何度聴いても魅力的なライブアルバムですわ。