無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

互いに在り合う関係、それが無と否定。

なんとなく読者の減る時期だと思うのでいつも以上に好き勝手書くとするか。そんなこと可能なのかと思うくらいに毎回自由に書いてるけれども、今回は読者を@utadahikaruに想定して…ってこれも毎回そう想定してるから告知ツイートが@utadahikaru宛てになってんだけどね。

てことで毎度お馴染みインタビューから引用。

『音楽と建築は、物を作るジャンルでいうとすごく似てると思うから。

ーー建築と、音楽はどういう風に似ているんですか? 

建築も音楽も空間作りで、無を構築することじゃないですか。建築でいうと、家を造るといっても壁を作ったり家を使う人も壁を使っているわけじゃなくて、その無の空間を使う。音楽も、例えば世界中の音を全部入れられるけど、ほとんどの音は入れない。隙間や音がない空間をどう音で区切っていくかという作り方ですよね。だから音は、壁とか屋根とか、階段とかフロアのような、ある意味で仕切りみたいなもので、その中を人が漂えるようにする、人を包む空間を作っているものなのかなって。音楽も無音で始まり、無音で終わるじゃないですか。』

https://spice.eplus.jp/articles/320799

『無を構築する』。このフレーズよね。なんだか禅問答みたい? いやいや、近現代では至ってポピュラーな、現実的・物理的・技術的に意味のある概念なんですよ。いちばん有名なもののひとつが、今あなたが手にしたり観たりしたりしてるデバイスの中に必ず仕込まれてる「半導体」の用語、「正孔(せいこう/hole)」。これは「電子の不在」を表す言葉なのだけど、辞書を引けばわかる通り、「あたかも」どころか、実際にそこに「正の電荷を持った粒子が存在する」として扱う事が出来る、というのが面白い(質量と有効質量の話は置いとく)。ミクロの世界では「存在」と「不在」は互いに対等なものなのだ。

同じ事が「無の構築」という考え方にも当て嵌める事が出来る。これは実は「有の構築」と何ら変わらない。実際、「有の構築」の結果だと思っている「実体」も、バラしていけばそれはどれも素粒子の集合でしかなく、御存知のように素粒子というものは大きさという概念が壊れていて、互いにスカスカな空間を隔てて物凄く疎らに「在り合う」存在、いやさ関係でしかない。物事突き詰めると在も不在も変わりないのだ。何かが在る為には何かが無ければならないし、何かが無い為には何かが在る必要がある。

さて、そうやって有無・在不在が相対化された感覚の中にあるからヒカルは「総ては言語、音楽も言語」と宣うのだ。と、この話は前にもしたけれど、それとこの「音楽を建築と相似させる感覚」は繋がっているということだ。恐らく、今のヒカルの心象風景の一部なのだろう。もっといえばマイブームだ。

私がこれを盛んに「今の一過性」なのだと捉えたがっているのは、一方で、どのインタビューでも

『曲の内容を自分では選べない』

と語っているからだ。んで、これら2つのこと─「音楽を無と見做すこと」と「音楽は融通できない」がちゃんと宇多田ヒカルとして対になっているのに、ヒカル自身がそのことについて余り自覚的ではない、この事が私の中でずっと引っ掛かっている。もっとちゃんとわかっといてよ、その上で発言してよ、と私がちょっと蟠ってるんすよ。ま、私は自分ではわかってて、その上で「だから今のヒカルは極めて順調」と思えてるのだから、実際は何も問題もないし、経験上、この一時的な無自覚が次の一手へのDriving Forceになりがちなのも知っているので、GoldEPを聴きながらニヤニヤしてたりするのですが。嗚呼もちろん、Gold自体にもニヤニヤしつつですけどね。ほんと、何の心配も要らんわ。日々の家族の身の安全と健康にだけは気をつけてね。いやそれは私がヒカルに限らず人類全体に発信したいことだけど。うん、これが私の日記よね。