無意識日記々

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智和くんとシシガミ様の眼差し


この前の日曜日には卓球の全日本選手権が最終日を迎えていて、連日熱戦続きだったのだが最後の男子単決勝戦が凄まじく、最後の最後までどちらか勝つかわからないギリギリの接戦を展開していた…スコア上は。


途中から解説の水谷隼も気づいていたように、張本智和が所謂“ゾーン”に入っていた。ああなると、興味深い事に、どう転んでも彼が勝つのだ。勝利者インタビューで「誰に感謝して良いのかわからない」と語っていたが、その感覚はとてもよくわかる。本人が超人的なプレーをしなくても、その場のあらゆる要素が彼に有利に働くようになるのだから。ヴェルドラさん(転スラの登場人物)のスキルに「確率操作」というのがあったけれど、起こる事ひとつひとつは何もかもあり得る事でなんら不思議はないのだけど、なぜか一定の目的に沿う可能性だけが悉く選ばれる。未だにわけがわからない。


まだ一週間経ってないのでNHKプラスで観れるのかな、張本智和の「目」が途中から典型的な「ゾーンに入った目つき」になっていたのが印象に残っている。いつもこの話題を出す時に「もののけ姫のシシガミ様の目つき」と形容するのだけど、その場の中心になる存在がどういう眼差しをもつのか、宮崎駿はよく本質を掴んでいる。



そんな話をしたのは他でもない、ヒカルさんて、恐ろしい事に、その眼差しの先を行っているのだ。環境を味方につけるのは最早デフォルト。シシガミ様的な眼差しで収まっていたのは2009年くらいまでで、そこを越した後はもうそれ以上、神様以上のマジカルな存在になっている。先程も書いたように、起こる事象ひとつひとつは日常的な、奇跡でも何でもないどうということのないものばかりなのだが、統合すると総てがヒカルの意志に沿うように組み合わされていく。


「その先」を感じさせたのが、毎度お馴染み『気分じゃないの(Not In The Mood)」。環境の様々な事象が中心の意志に沿って起こる、というのは他の意志の存在を除いての話であって。先の例をとるなら、もし戸上俊輔が張本智和の意志を上書きできていたら戸上の方が優勝していただろう。意志は意志に殉じない。


だが、ご存知のように『気分じゃないの(Not In The Mood)」はまるで意志のある人間をも“操って”いるかのようにみえる。雨をしのぐ詞を書いてる人間に、雨をしのぐ為に詩を売る人間が話し掛けてくる。そんな偶然あるんだねぇ、で済ませるのが社会人としての嗜みだが、宇多田ヒカルの創作能力を知っている者がそれで済ませるのはとても実感と印象にそぐわない。こやつはまた更に進化したなと解釈するしかなかった。


想像だが、「これからは更に下手な事は言えない」とヒカルは思ってるのではないかな。言霊の実現能力が新しい次元に突入している。昔は、SCv1の表紙詩で書いたように、魂を込めた歌詞が自己実現、預言性をもつ程度で済んでいた(※普通はこの時点でマジカルなのだがこれで驚いていては宇多田ヒカルを聴いていられない)のだが、今やヒカルが何気なく放つ言葉一つでも何をやらかすかわからない。発言が減っているのも、そこらへんの感覚を反映してるのかもしれないわ。


なので、ヒカルがツアーの成功を祈るなら成功する。それだけだ。だったら戦争終わらせたい、とヒカルは言うのだろうけど、ホントそれだよね。そういう領域には全然効果がない…というか、あちらの世界ではこれが効かない。もののけ姫で描かれた通り、シシガミ様は首を刎ねればそれでおしまいなのだ。宮崎駿はほんによく物事の本質を掴んでると思うよ。


たまにはこういう日記書いとかないとね。合理的な私は、非合理に夢を見る事はないのでありました。