無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

実感と希望と接平面

"いつ休むか判らないけど結果的に働き詰め"より"信じて待つ(アー活の)空白"の方がキラクとは人の心理は実感より希望に左右されるんだなと熟思う。よくよく考えてみれば僕らの殆どにとって普段会う事のない宇多田光という人との接平面はComputerScreenやスピーカなのであって、彼女は五感で実感できる生身の人間ではなく人の象る"其処にそうして居てくれたら"という願望や欲望や希望に依拠する"存在"なのだ。口をついて出た"やっと普通のファンになれそう"という私の一言はそういう意味なのだが、裏を返せばやはりソレには一抹の寂しさもあるんだなと思った。