無意識日記々

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地続きで高い場所

「国」という概念は様々な様態を内包、外延するがスポーツの場合は結構はっきりしている世界的な組織があって、それに加盟する各国と地域の協会がある。そこに選手登録すれば誰でもその競技の一員となれる。勿論、出るも入るも貴方の自由。そこらへんは行政体としての国とは随分異なるが、何より大切なのは、誰に対しても"世界一"への道が拓かれている事だ。

細かい事情は競技によって違うから、必ずしもそう言い切ってしまうのは正しくないのだが、例えば(私の知っている)卓球を例にとれば、世界選手権の代表基準に必ず"全日本選手権優勝者は無条件で選抜される"旨明記されている。全日本選手権で優勝する為には出場せねばならないが、その為には各地区予選を勝ち上がる必要がある。そして、その地区予選には登録さえすれば誰でも出場する事ができる。

何か余計な事を書いてしまった。要は、スポーツにおける"世界一"は、あなたと地続きに繋がっているのだ。そこでは、実力さえあれば公平なルールの元勝ち上がれるシステムが出来上がっている。トーナメントがいいかリーグ戦がいいか等々方法論は百家争鳴だろうが兎も角、スポーツにおいての世界一は本当に世界一なのだ。

こういう白黒ハッキリした目標のある世界を、時に羨ましく思う。点を取られて悔しがり、点を取って喜び、負けて落ち込み勝って舞い上がる。ヒカルも学生時台はバレーやバスケといった球技に携わっていたからその喜怒哀楽は熟知している筈である。だから、競技は違えどスポーツの世界一を決める舞台となると興奮せずにはいられないと思う。

この場合、"国"というのはまさに競技の勝ち上がりがお互いに繋がり合っているかどうか、そしてその階層がより近い事が重要になってくる。時期から考えて、ヒカルが何らかの競技に取り組んでいたのは日本でではなかったろうか。スポーツといえばアメリカより日本のイメージが強い。なのでアメリカと日本が対戦すると日本を応援する。そんな感じがする。

僕らにとっては出ている人たちが日本語を話すかどうかはとても重要だ。見た目が黄色人種でも英語しか話さない人は(容姿が近いだけに余計)遠い感じがするが、日本語を話してくれれば肌の色など関係なく親近感がわく。インタビューで日本語で受け答えしてくれるのをみると、やっぱり応援したくなる。

ヒカルにはそういうのがない、はずだ。アメリカチームが敗れて英語で悔しがってるのをみても"残念だったねぇ"と共感すると思うのだ。

そんな彼女にとって、アメリカか日本かどちらを応援するかという問題は、巨人を応援するか阪神を応援するかと似たようなもので、小さい頃からスポーツにおいて親近感をもってきた方を応援しているだけかもしれない。

スポーツをしたことがあって、あの地続きでどんどん強い者が勝ち上がっていく世界での一番が、世界一がどれだけ途方もなく高い場所なのかを何となくでも知っている人間にとって、今回のなでしこジャパンの快挙は身も震える程の感動だろう。ヒカルも大いなるカタルシスを覚えたに違いない。