無意識日記々

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転化

時々、僕ら全員が死んだ後の宇多田ヒカルの"歴史的評価"ってどうなっているのだろう、と思いを馳せる事がある。

20世紀の音楽全般にいえる事だが、ここまで多種多様多数の人間が音楽に触れる時代は未だ嘗てなかった訳で、その分消費されるサイクルも早くなった。

その中でも、The Beatlesなどはデビューから半世紀を経過してもまだまだ大きな影響力を放っていたりする。まぁこれはポール・マッカートニーがバリバリの現役である事も大きいと思うが、如何にサイクルが早かろうが優れた音楽はそれなりに生き残るのかなとも思う。

もっと長いスパンで考えれば、まさかモーツァルト本人は自分の死後200年以上経ってもこんな極東の島国でここまでの人気を博しているだなんて考えもしなかったろう。そもそも、自分の音楽が伝わってる事すら夢にも思わなかったかもしれない。当時は蓄音機もなかったし。

そう考えると、宇多田ヒカルの音楽は、いつの時代、どこの文化まで伝わり続けるのか。文化の保存を担保する"国"という存在が今までは重要だった。例えば、源氏物語が1000年の時を経ても我々の眼前にあるのは、何より日本という国が内戦はあれど殆ど外から侵略された事がないというのが大きい。

しかし、今はインターネットがある。この国が滅びても、世界のどこかで日本の文化は引き継がれているのではないか。ナチスのように歴史的抹殺に相応しい所行を為したと判断された場合、全世界で廃棄されていく運命も考えられなくはないが…。

ただ、そうするとやっぱり歌は英語で歌ったものの方が残るのかなぁという気もする。歴史なんてわからないもので、文化の盛衰は激しいものだが、英語に関してはこの言語で育ち生活している人の数が多すぎる。現状、いちばん先まで生き残る言語だという見立ては出来るだろう。

尤も、英語であれ日本語であれ今の皆が死んでいった後には現時点で書かれた歌は、僕らが源氏物語の原文(そんなものがあるかどうか知らないけど)を目にした時に一文字も読めないように、すっかり"古文"になり果てているだろうし、昔と違って音声や映像がそのまま伝わっているだろうから歌詞の意味なんてものは問題になってないかもしれないけどね。今の若い子にだって、「ここでゆってるPHSってのはね、携帯型電話の事でね…」って説明しなきゃいけないだろうけど、それでムビノンの曲の魅力が伝わらないかというと、そんな事はないだろうから。

寧ろ、ここはポップミュージックらしく、その当時の空気をよく伝える文化的素材としてみた方がよさそうだ。この、インターネットによる記録性の莫大な進化が、その時代々々の流行を捉える事が普遍的価値を生む、という逆説的な状況を作り出し始めている訳で、光がポップに拘るのは実は普遍性を宿したいという願いの転化なのかもしれないな、と思った。