無意識日記々

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ひとりとふたり

人称のバリエーション。君と僕、あなたと私、僕らにみんな…人と人との関わりを多く歌う中でとりわけ宇多田ヒカルは「1対1」に焦点を置いた楽曲を提示し続けてきた。それはUtaDAでも同様で、Crossover Interludeにあるように「越えたいのはジャンルとジャンルの壁じゃなく、あなたと私の間なの」という具合だ。"向き合う"という感覚が歌い手とどこかの誰か、或いは歌い手と聴き手の間に成立してきた。

しかし、最近の楽曲はその"相手"の掴み所が、何となく変化しているように思える。いや、"相手"が変化そのものというか、捉え所のわからない、あやふやなものになりつつある気がする。

それを最も端的に表していると思われるのが嵐の女神だ。

何言ってるんだ、あんなに"相手"のハッキリした歌はない、『お母さんに会いたい』って言い切っているじゃないか、と言われるかもしれない。完成形としてはそうである。或いは、そこで完成したから時代にひと区切りついたともいえるかもしれない。が、この歌は元々母に向けてではなく、他の誰かに向けて作り始められたのだ。その制作の過程に於いて、"相手"が変わるなんて事が、普通あるだろうか。この"変化"を許す所に、光の独特さがあるように思う。

元々、光の歌詞はその普遍性が個別に響くというのが大きな特徴だ。多くの人々が「その歌詞は今の私の状況を歌っているのか」という感覚に陥った事がある。例えばMaking Loveなんかは本当に特定の誰かの話を歌ったものなのだがそれでも聴き手は自分にとってピッタリの歌だと思う。歌詞として昇華されていく中で、その何処かで、相手の特定性が打ち消える瞬間が、ある筈なのだ。それを通して当初の予定通り親友について歌ってもいいし、嵐の女神のように途中で変更して母に向けて歌ってもいいし、Prisoner Of Loveの様に親友のような恋人のような、どちらともとれる所に落とし込んでもいい。自在なのである。

その自在性の源は何なのだろうと考えると、それはKuma Changしか居ない。相手を一旦総てくまとする事で普遍性と個別性の間を自在に行き来し、普通が特別で、特別が普通な境地に辿り着くのである。くまちゃんとの出会いは、その思い切ったやり方への気づきそのものだったのだ。

そう考えると、"ひとり"に振り切った歌の捉え方も変わってくる。Me Mueroしかり、テイク5しかり、虹色バスしかり。ここでの"ひとり"は本当に"ひとり"なのか。また、他の歌も含めて、そこで歌われている"ふたり"は本当にふたりなのか、それはくまちゃんではないのか。そうやって考えながら聴いてみるとどうなるかって話はまた稿を改めて。