無意識日記々

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じゅわ〜

昨夕PFMを聴きながら「やっぱりこのメロディーはイタリア語で聴きたいな〜」と痛感した。彼らの場合、一旦イタリア国内で自国語でデビューしたのち同じ楽曲の英語版で国際デビューした経緯があったので両語バージョンを聴き比べられるのだが、私の場合英語で歌われても何を言っているのかサッパリ聞き取れないのでどちらの語で歌われようが基本的には同じ筈なのに、やっぱりイタリア語で、と思ってしまう。

これは、このBlogではお馴染みの話題、歌における歌詞言語とメロディーの組み合わせの話だが、やはりメロディーを直接生んだ語の方が親和性が高いのだろう。音声学的にみても。

朝の連続テレビ小説「おひさま」のテーマ曲は月金でインストだが、土曜日になると突然平原綾香の日本語が乗る。同じメロディーで。元々歌にするつもりはなかったのだろう、やはりその歌詞の乗り方は案の定(?)違和感がある。メロディーの輪郭は伝わってくるがなかなか歌詞が印象に残らない。全然関係ないけど第119回はよかったねぇ…紺野まひる…119か…まぁそれはさておき。

ヒカルが日本語をR&Bに載せて成功した、とはデビュー当時方々で言われていた。非常に緻密なノウハウがそこに既にあった事は疑いがない。もしかしたらある程度後続の歌手たちに手法が真似られていたりもするのだろうか。私はよく知らない。

本来、日本語の響きを大切にするとメロディーの印象は薄くなる筈だ。他方、平原綾香にみるようにメロディーが幅を利かせていると、歌詞の乗り方はどうしても不自然になる。両者はトレードオフの関係といえそうだが、ヒカルの曲は詞も自然に載っていてメロディーも刻み込まれるというトレードオフ無関係な事態になっている。これは、手法を真似たからといっておいそれとは似せられない部分である。

"詞も自然に載って"とは書いたが、デビュー当時注目されたのは『七回目のベルでじゅわっ』に代表される"今までになかった""斬新な"日本語詞の載せ方であった。しかし、今の視点からみると寧ろこういった事例は"苦し紛れ"に近いケースだったのではないかとすら思えてくる。今の光は、強いメロディーに実に自然にメロディーを乗せれてしまう為そういう"苦し紛れ"がかなり減ったのではないだろうか。

例えばGoodbye Happinessなら例の『はしゃいで・たあの頃』の切り方なんかは、その"苦し紛れ"の末裔といえるのではないか。『七回目のべるでじゅわ』に較べて随分と目立たなくなっている。なのに響くメロディーの美しさは当時よりおしなべてずっと強い。12年かければここまで来れるのだ。

余りに自在に日本語が載せれ(てるようにみえ)る仕上がりの為、日本語で残すインパクトは寧ろ単語のセレクトの方に軸足が動いた気がする。GBHでいえば『浮き世なんざ』の類である。

初期のヒカルは歌詞の技巧がそれとわかる目立ち方をしていた為絶賛されたが、今は技巧が余りにも自然に援用されている為そもそもその匠の技が気付かれない。歌詞に騒がれなくなった今の方が、実態としては寧ろとんでもないのである。真の才能は、素知らぬ顔をしてあなたのすぐ目の前を通り過ぎていくのである。