無意識日記々

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Will it be automatic ?

誰かのライブをみにいった時、やっぱり心を込めて歌ってくれれば感動するよねぇ、当然だよねぇ、とひとつ想像を巡らせた瞬間には思うかもしれない。1音1音、魂を削るような歌唱。それを観に、聴きに来る為に高いチケット代を払ったのだ、休みをとってここまで来たのだ、もしかしたらこの人の歌が聴けるのは今回が最後かもしれない。しっかり胸に刻み込んで帰るぞ―そんな風に力んでしまうのが、聴衆の心理、人情というものだろう。

しかし逆からみると。歌い手は、それがヒット曲であればあるほど、何百回、何千回と同じ歌を唄っているのだ。彼、彼女たちにとって、その歌を唄う事こそ日常。僕らが歯磨きや洗顔を毎日するような感じでその歌を唄う。

人間の脳とはよく出来ていて、同じ行動を反復すればするほど、その行動は"自動運転"になっていく。それこそ自転車の運転などはわかりやすい例だろう。覚え始めは、必死になってバランスをとったり左右のペダルやハンドルと格闘してみたり、四肢に様々な注意を払わねば運転が成り立たない。しかし練習を重ねた挙げ句コツを掴んで一旦乗れるようになると、もう細かい事は気にしないでも自転車は前に進むようになる(ここで引っ越してしまうと20代後半まで前に進むだけで曲がれない、なんて事になったりするのだがまぁそれはさておき)。自転車に乗っている時に、自分の足がペダルを漕いでいるだなんて意識しない。他の事を考えていても、足はしっかり動いてくれるのである。

歌も同じだ。何度も歌い続けると、何も考えてなくてもきっちり喉が音を出してくれるようになる。その人がヒット曲を唄う事は、聴衆にとっては生涯にいちどきりかもしれない特別な時、唄い手にとってはありふれた日常、そのギャップの大きさに、唄い手は無闇に気がつかない方がいい。自動運転で歌えているのに、余計な事を考えると歌詞がとんじゃったりする。

長年歌い続けていると、そんな風になってしまうので、それをつまらないなと素直に感じる人はメロディーを変えてみたり、リズムやアレンジを変えてみたりと工夫を試み始める。そこには何の悪意もない。それどころか、"より歌を面白くしよう"という前向きな心意気で、ヒット曲には次々とアレンジが加えられていくのである。

一生にいちどきりかもしれない歌を聴きにきた聴衆にとっては、たまったものではない。あの、CDで聴ける歌唱をナマで体験したいと意気込んできたんだ、あの名曲をなんでそんな風にアレンジしてしまうんだ。そんな怒り。

だとすれば、歌手はどうすればよかった? 仕事だと割り切って、ルーチンワークで本来の姿のままの歌のメロディーを唄えばいい? もう自動運転化しちゃってるから、唄ってる時は心ここにあらずだよ、今更この歌に心を込めて歌おうとするんだったら、何か新しいチャレンジがないと。自分の心に嘘はつけないよ。

ジレンマ。ヒカルの場合は、まだここまで来ていない気がする。どれだけ沢山唄った歌だろうが、未だ人前で100回以上披露した歌はない筈だ(よね?)。しかし今後、ツアーの密度があがってきた時には、初恋やオートマあたりは脳が覚えてしまって自動運転可能になるかもしれない。そうなる事は、避けられないだろう。

しかし今までの所は、流石のヒカルもどの歌も"心を込めて"唄わねば間違ってしまう歌ばかり。好不調の波はあれどどれも魂を削ったテイクばかりである。今後もいままでのような薄い頻度のライブ間隔なら、歌はずっと自動運転にならないだろうが、果たしてどちらが幸せなのか、今の僕にははかりかねるよ…。