無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Oops,Opeth Crops Pops anything

Opethの音楽は常にどこまでも徹底してOpethであり、曲調が静と動を激しく行き来してもその世界観に些かの破綻も生じない。故に鳴ればすぐOpethとわかる反面、その世界に入るきっかけを失った者はどれだけ聴いても退屈で仕方がない。逆にこの世界観に感性が符丁した人間にはどこまでも夢見心地を与えてくれる。

彼らの音楽は時として"迷宮に迷い込んだよう"などと形容されるが、この"出られない"感、ず〜っとひとつの建物の中には居るんだけど無限のバラエティーがある感じを、巧く表していると思う。

こういう音楽は、Popsから最も遠い位置にいる。だからこそこれだけの規模の商業的成功を収めているのは驚異的なのだ。

裏を返せば、もっとどこまでも門戸を開き、"世界"をもっと賑々しく、無節操に飾り立てるのがPopsともいえる。

ヒカルの曲に制限がないのは、つまりPopであろうとする事の意志の裏返しであろう。

先程のOpethは、世界に入り込めないといつまで経っても遠い存在のまんまだが、Popsは、街中だろうがラジオだろうがインターネットだろうが、聞き手の懐に飛び込んでいかないといけない。生活の中で音楽が積極的に飛び出してくる瞬間を与えないといけない。

キャッチーなメロディーラインは、したがって、ひとつの閉じた世界観に居座り続けると生まれなくなってゆく。今ここにある見通しから外に飛び出していく意志をもって初めて人の懐に飛び込んで心を掴む事が出来るのだ。

故にPopsの無節操さとは、宿命的なものである。常に流行を追い、目移りし、あっちに行ったりこっちに行ったりと外へ外へという意識がないと、Pop Musicは生まれない。その過酷さが、業界自体の入れ替わり、新陳代謝を要求する。大変なものである。

ヒカルの場合、しかし、声がある。曲作りでは制限を設けず、常に新しい何かに取り組んで結果を出しているが、この強烈な声の個性は変わりようがない。多様性を統括する役割を、この声と歌唱法のアプローチが担っている。

ただ、時にPassionのように独自の世界を作り込み過ぎてPopさが物足りない場合が出てくる。そうなると、何故かヒカルの声に合わなくなる。一方で、Prisoner Of Loveのようにヒカルの声を活かしきる楽曲が生まれた場合、とにかくPopularityは高まる。何か、矛盾というか、不思議な相関がある。

一方で勿論、ドラマやWonder 'Boutのように、声を活かした曲を作ってきた場合もまた、Popさが薄れてゆく。この作曲感覚でアルバムを作れば"ヒカルの世界"が構築され、閉じた世界観は聞き手を選ぶ事になるだろう。

常に、ではないがここには何かの奇跡がある。私の仮借ない推測を付け加えるならば、"宇多田ヒカルの閉じた世界"とはこの世界全体そのもの、或いは宇宙を超えて更に広がっていくのかもしれない。壮大過ぎて唖然とするが、この不可思議な矛盾をConsistentに捉える為には、その仮説以外に思いつかないのである。