無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

嵐の女神と風の少年

こんなに強い風は聴いた事がない―いや台風凄いね。

音を聴いて恐怖を感じるなんていつ以来だろう。実際、足を踏ん張らなければ立っていられない強風というのは生まれて初めての経験で、その嘶く風の音(ね)の喚起する感情のプリミティヴィティには吃驚した。

幽霊が怖くない、というより死んだ人間より生きてる人間の方が(時には)怖いと思っているクチなので、音がどう鳴ろうが精霊の予兆だとか全く考えないのだが、その音が狂気を孕んでいる事は一発でわかった。事実、この嵐は日本中で凶器と化して人々を襲っているらしい。

そういう切羽詰まった時に私が考えていたのは、「ただの"音"にここまで狂気を帯びさせ、鈍感な私に戦慄させる事が出来るのであるなら、この感情を再生する音楽だって書ける筈だ」という些かのんきな、平和な話であった。

音と感情の繋がり具合というものは、よくよく知っているだけによくわからない。何がどうなってこう感じるのだろう、と悩み始めると既知の風景すら崩壊を始める。五感のゲシュタルト崩壊である。

ただ"再生"するだけなら、この嵐の風の音をそのまま録音すればよい。もしかしたらそれもまた、音楽かもしれない。何より、プリミティヴだ。しかし、これは光の言うところの「何かをぶちまけて偶然作品ができる」のに近い。近いが、別のものだ。実際、嵐の力を我々は畏怖し、警戒しなければならない。でなくば嵐に巻き込まれてしまう。強風に対する恐怖は、生きていく為に必要な感情なのだ。

では、この台風15号(全くの余談だが、今日流れてきたツイートに"毎月22日はショートケーキ〓の日"というのがあった。何でも、カレンダーでは必ず22日の上に"15(いちご)"が乗るかららしい。おっしゃれ〜。というわけで私も宇多田苺さんに明日は上から乗られてみたい…どうやって22になろう…)Rokeに感じた恐怖とは、何か遺伝的な要因でもあるのだろうか。人が生きていく為の処方箋として、DNAに組み込まれているのだろうか。

いや違う、と私の直感が囁く。人は音から、そこに秘められたエネルギーの大きさや熱、速度といった物理量を推定できるのではないだろうか。雷もそうだ。落雷のサウンドを耳にする度、そのパワーの比類無さに毎回惚れ々々する。昔数百メートルほど先に落雷があったのを目撃し「当たったらと思うとゾッとした」と家に帰ったらまさにその時間その地点で「男性に雷が落ち重体」だというニュースを知り気が滅入った覚えがある。雷は本当に人に落ちるんですよ。

音は。人は音から、感情を得る。或いは音によって感情をより合わせる。再生できる。嵐や雷から受ける、得られる感情を、音楽化できたらいいなぁ、美しいだろうなぁ、と思う。人を次々と殺めていく天災を美しいと讃えるのも抵抗があるけれど。

嵐の女神ときいた時、多くの人が、例えばThis Is Loveのような激しい曲調を予想したのではないか。私なんか「B'zみたいな曲名だ」とか言っていた。しかし蓋を開けてみると、そこで描かれていたのは「嵐の過ぎ去った後」の風景だった。ある意味、暗喩で嵐を描いた曲だともいえた。

実際、嵐の通り道を歩いて帰る主人公もまた、嵐になろうとしている、或いは、嵐に倣おうとしている。彼女の追う背中は、未来の自分の後ろ姿でもあるのだ。

光の曲において転生や生まれ変わりといったテーマ、モチーフは非常に大きな意味と意義をもつ。彼女の関わってきた作品たち、例えば春の雪なんかは日本文学における転生モノの決定版といえるし、EVAだってただ親子関係を描いた訳ではなく、あれは「母が転生するとしたら何を望むだろうか」という主題の視覚化なのである。直接は関係ない話だけどジョジョの奇妙な冒険に出てくるスタンド(幽波紋)とは作者の荒木飛呂彦曰く"超能力の視覚化"だそうな。なるほど。

嵐の女神の奇妙な、しかし確実に印象に残る、心に刻まれるラストシーンは、自己が母の背中を追い、そして自分がその背中にやがて同化していく事を暗示している。

ぼくはくまが嵐の女神と同型の物語をもつ事は以前指摘した通りだが、光がギガントの頭を脱ぐモチーフを好んで何度も繰り返し使用するのは、この嵐の女神における追う背中に自ら成るのとまた同型である。抱き締め甘えるぬいぐるみの頼もしさに、自らがまた成る事の暗示なのだ。そして、その自分の姿はまた次に受け継がれてゆく。光の頭を脱ぎ捨てるギガントの絵(落書きだけど)は、そのプロセスに終わりがない事を僕らに報せる。ああ描けばループが完成するからだ。

となれば、即ち、光が次に姿を現した時には、彼女は嵐になりつつある筈だ。光が嵐という言葉でどういった内容を示唆しているかは具体的にはわからないが、あれだけ「変わった人」と言っていた母の姿を(たとえ意図していなくとも)追ってゆくというからには、何か風変わりな課程を経ていくのだと思われる。

しかし私は、この人騒がせな"台風一家"にはまだ人が足りていないと思う。それが表題の"風の少年"であり、これは前にテレビでやっていた尾崎豊のドラマのタイトルなのだが、この話は暫くは続きを書かない事にしよう。まだ僕自身も、何から書けばいいかわからないんだ…。