無意識日記々

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無頓着の精神

アメリカはメダル獲り過ぎてるから応援する気にならんのだそうな…そういうもんかね。

その昔ヒカルは「チームを応援するのってピンと来ない」みたいな事を言っていたような。まぁ昔の話なのでもうどっちでもいいのですが、その「ピンとこなさ」をよく表す状況がこの度現れた。例の、イチローヤンキース移籍である。

イチローファンは長年、そう、11年半もの間イチローを応援しながら、彼の所属するシアトル・マリナーズも同時に応援してきたのだ。一口に11年半と言っても長いよこれは。当時幼稚園を卒業した子がたった今大学受験や最後の甲子園に向けて頑張りまくっているのである。幾星霜だよまったく。

そんな彼らが、準備時間2時間余りでヤンキースを応援しなければならなくなった。しかも対戦相手はそのマリナーズ。割り切れない思いを抱いて当然であろう。単にイチロー個人を応援するだけならこんな事は起こらなかった。チームを応援するから奇妙な事が起こる。

しかし彼の場合は、チームの勝利を第1に考えているから(WBCを思い出せばよくわかるだろう)、イチローを応援しているといつの間にかチームも応援するようになる訳で…複雑な思いが去来するのも致し方ない。

要は、チームを応援するというのは、突き詰めれば「中身は何でもいい」のである。そこが昔のヒカルにはピンとこなかったのだと思う。しかし、「何でもいいし誰でもいいんだけど、誰か・どこかひとつ決めて応援しながらスポーツを観戦する楽しさ」を知ってしまえば、チームを応援する事に抵抗をみせるどころか、率先してテレビ観戦してしまうようになるだろう。テレビないんだっけか。

この、「どうでもいいけれど」「何でも誰でもいいけれど」というのは最大の曲者である。誰でもいいのなら、「とりあえず同じ国のヤツを応援しようか」となる人数は圧倒的に多い。個人への愛着もチームへの愛着も国への愛着も何も必要がない。というか、どうでもいいからこそ愛国心というものは生まれるのである。真面目に国を愛そうと思ったら「あれ?"国"って何?」となりかねない。そこで考え込んでしまうとどこも応援できない。「俺日本人だから日本応援しよ」という単純さが、国を動かすのである。熱狂に必要なのは愛ではなく"どうでもよさ"、即ち無頓着である。新年を迎えるカウントダウンであれだけ盛り上がれるのは、時間がどうしようもなく単調だからだ。時間の均一性、一様性がひとを熱狂に駆り立てる。キリのいい数字を迎える時に沸き立つ。その数には何の意味もない。原点を変えたり、進数を変えたりすればキリ番は途端に"ただの数字"に逆戻りする。チーム応援も似たようなもので、別に日本以外の国を応援したとして
もそれはそれで楽しい筈なのだ。なかなかそうならないのは、周りがみんな日本を応援しているからである。この組み合わせ、「実際、どれでもいいしどうでもいい」という無頓着の精神と「周りがそうしてるから」という迎合の精神。大衆のパワーはこうやって生み出される。

果たしてヒカルは、そのパワーに対してどんな曲を書くのだろうか。市場史上最高に売れるというのは、「正直、音楽なんてどうでもいい」という大多数まで巻き込んで初めて可能だった筈だ。チームを応援する熱狂を知ったヒカルは、何をどちら側に蹴飛ばしてくるか。中身で勝負してついてきてくれる人の為に歌うのか。ヒカルが歌に無頓着を持ち込んでくるとはどうしても思えないので、やっぱりそんなに売れないのかなぁ。私は王様は裸だと気兼ねなく言えるので歓迎なんだけどね。