無意識日記々

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大海の一滴の恩知らず、露知らず。

ついつい「宇多田ヒカル、インディーズにならないかなー」と思ってしまう事がある。

誰かのファンをやっていたら、たまには本人から感謝されたいものだ。しかし、宇多田ヒカルくらいビッグになると、こっちがどれだけ貢いでも大海の一滴というか、取るに足らないだろうなぁと感じてしまう。これがちっちゃいライブハウスで数十人の観客を相手にしている地下アイドルなら全然違うだろうな〜と思ってしまう。

ファンクラブもないし、ヒカルとしてもあんまり盲信的に入れ込まれ過ぎるのも困惑するので肩の力抜いて聴いてもらえればいいと思ってそうだが、何だろうね、他所をみると握手会とかしてたり(禍前はね)─いや、それをしたいという事ではないのだけれど、明確なリターンというか応答があったりするんだなー他所だとねぇ。

勿論、ヒカルのファンサービスは素晴らしい。それに文句がある訳では無いのでそこは誤解しないで欲しいのだが、「自分が居ても居なくても一緒」という心境がどうしても消えないのだ。ヒカルがあんまりにも大っきいもんだから。

一人の人間としては大きいも小さいも無い(約158cmで50kg以上…?)のだけれど、人々の共通認識の中の宇多田ヒカルは途轍も無く大きい。

「どちらにお出かけなんですか?」

宇多田ヒカルのコンサートです。」

「あら、いいですね。」

この「いいですね」を恐らく1億人位の人間から引き出す事が出来るというのは結構とんでもない。誰もが出来る訳では無い。そして、このサイズ感なのだ。応援してても時折無性に無力感を抱いてしまう原因は。ヒカルが素っ気ないからではない。Twitterではリプライしてくれるし、インスタライブではファンをゲストに招待したりした。スタッフからはTシャツプレゼントとかあったばかりだ。リターンは沢山貰っている。そういう所で不満がある訳では無い。ただただひたすらに、「自分じゃなくていい」というそれなのだ。

だが、それを補完するように、昔から僕らは「私だけのヒカルちゃん」という感情もまた持ち合わせている。自分の事をわかってくれるのはあの人だ、あの人だけなのだ、と。それは無力感と対になっていていつでも容易に反転するし、互いに支え合ってもいる。奇妙で不思議な感情のタペストリーだ。なので、無力感も独占欲も、常に湧き上がってはまた収まり、今日もヒカルの歌声を聴いて悦に入る時間がやってくる。そのあとに、ヒカルがリアルタイムでちらっとでも呟いてくれたり写真を見せてくれたりしたら最高だ。そうやって20年くらいなら簡単に過ぎるので、まだファンになって日の浅い方々も安心して欲しい。寧ろ、「自分みたいなのが居なくなっても同じじゃん」という自意識過剰が出てきてからが本番といえる。そういう時の気分に寄り添ってくれる歌がライブラリーには沢山あるぞ。『For You』とか『WINGS』、『残り香』なんかがお勧めだ。英語なら『About Me』かな。もっとも、今や万能の『誰にも言わない』があるので、これを聴いてればそれでいい気がするけれど、余りに達観しすぎていて日常の感覚を濯ぎ落とすには距離があり過ぎたりもするから、そういう時は『Can You Keep A Secret?』あたりがフィットするので併せて鑑賞して欲しい。誠にヒカルの歌と歌の関係性というのは見事なものなのだなぁと毎夜毎夜感心しているのでありました。今宵も月夜を眺めながら聴いて帰るかな。