無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

2世紀近く不遇だった絵描きの話

現在乃木坂駅直結の国立新美術館で「メトロポリタン美術館展」が開催されている。週末にふらっと観てきたのだけど65点もあると目が眩むね。体力要るわ。

そんな中でひときわ目を引いたのがひと区画にたった3枚しか置いていないスペース。その3枚はいずれも素晴らしかったが中でも

マリー・ドニーズ・ヴィレール作《マリー・ジョゼフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ(1868年没)》

https://met.exhn.jp/works/modal_chapter02_09.html

という1枚が素晴らしかった。なんつー長い名前やねん…(コピペしました)…マリーさんの描いた別のマリーさんの絵なのね。

この作品は長年作者が誤解されていたらしく。以下のリンク先に詳しい。

https://cosinessandadventure.com/how-to-learn-art-history-003/

https://www.donga.com/jp/article/all/20200723/2128984/1

色々と言いたいことはあるが結局は女性画家ってのは差別によって光を当てられる機会が非常に少なかったということなのだろう。全く腹立たしい話だ。真偽のニュアンスはわからなくても腹を立てていい気がする。

この1枚は何より暗い部屋での光の当たり方の描写が素晴らしいのだが、先日一足お先にこの美術館展に足を運んでいた@kukuchangからこんな指摘があった。

「この絵そのものが

 そういった絵の顛末・歴史を

 強調・象徴している」

と。言われてみれば、確かにその通りで! リンク先に書いてあるのだが、この暗い部屋はルーブルの近くのアトリエらしく、そこで女性がキャンバスを抱えて絵を描いている。華やかな美術館(美術界)のすぐそばで、誰からも光を当てられることなく黙々と絵を描き名も無いままこの世を去った作者の姿そのものだ。とはいえ、自画像ではないようだが。

どうにもその指摘が自分の心に残った。そもそも自身の不遇をこの1枚に込めた、という捉え方も出来なくはない(というかそれが普通な)のだが、実際に目にしたこの絵は、なんというか、もっと神々しく、自信に満ち溢れているように見えた。あまり昏い感情を主体にしているようには思えなかった。

それは寧ろ、絵そのものの力によって自らに託されたストーリーを自力で体現したかのように思われた。絵を擬人化して語るというのは荒唐無稽なのはその通りだが、自分の脳裏には宇多田ヒカルの『Single Collection Vol.1』の表紙詩の事が浮かんでいたのだ。そこにはこう書かれている。

"In awe, I receive messages from the past --- lyrics that become self-prophecies, coincidences that remind me of my destiny, voices of singers long gone. They tell me that whichever path I choose will take me home."

中でも今回注目したいのは

『lyrics that become self-prophecies』

の一文だ。「自己予言を成す歌詞」。ヒカルが、自身の書いた詞が後に本当に実現する事を指して綴った一文である。

これは、自己暗示の面も確かにあるのだろう。何度も同じ歌詞をこねくり回し推敲し歌っていればその考え方に染まっていく、というような。藤圭子さんは、演歌を歌うとその歌詞に擬えて歌手の人生まで不幸になってしまうからとヒカルを演歌から遠ざけたという。経験から、どうしても引っ張られる事を知っていたのだろう。

ヒカルの言う『self-prophecies』は何か、しかし、そこから更にもう一歩踏み込んだ、より強い概念な気がするのだ。歌詞を擬人化して語るとなると絵を擬人化するより更に荒唐無稽だとは思うが、歌詞という存在が自己実現欲求を持ってこの世を「生きて」いるように思えてくるのだ。

その現象の最新版こそが、そう、『気分じゃないの(Not In The Mood)』なのではないかなと。

…で、この話の続きは『Liner Voice +』の翻訳が出来てから、ですかね。そこのヒカルのコメント無しに話は進まないので。書き起こしまでは終わってるんだけど翻訳がまだなのですよ。一方でApple Music Radio1の方もじわじわ進めておりますのでそちらも気長にお待ちくださいなっと。