無意識日記々

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もう「アイドル」でもないかも?

前回纏め忘れてたわ。ELLE CHINAは中国語雑誌だからインタビューが載ってても読めないのでは?と心配になる人が在るかもしれない、という話。その場合もスマホGoogle翻訳アプリを入れてカメラを翳せばOKだ。

https://youtu.be/HrxSEpRMGS8

この動画は6年前のもので、今では速さも正確さも自然さもぐっと増している。スマホを虫眼鏡代わりに使う人も居るかと思うけど、あの感覚で今は外国語も日本語にして読めてしまうのよねぇ。未来だ未来。

ということなので、今後UTADA HIKARUが色んな国の雑誌書籍に取り上げられたとしても遠慮なく取り寄せてしまおう。いや勿論、別に欲しくないならいいんだが。でもヒカルはそのインタビューの到達範囲に応じて発言を変えたりするから、普段聴けないような事が聴けるのが海外インタビューの醍醐味だったりします。

まぁその中でいちばん顕著だったのが2009年の英語インタビューでの「今恋人居ますよ」発言だったりします。今だと日本語でもこういう受け答え出来るけど、26歳当時はまだまだ少しアイドル視されているとこあったから結構衝撃的でした。既にバツイチだったけどね。

って、私も長年「アイドル視」という言葉をヒカルに使ってきてるんだけど、やっぱり根本的に、少なくとも日本語圏での「アイドル」という言葉にそぐわない愛し方をしてるなぁというのを改めて痛感してまして。今。

例えば最近でも、パリファッションウィークに参加したとき、勿論その格好良さにまず注目が集まったけど、ファンがいちばん「好ましい」と思えたのはその後に息子と猫カフェに行ったエピソードではなかったか。

https://www.instagram.com/p/CpklnGaMLQq/

自分の「推し」を「アイドル」としてみた場合、それに「夢を見ている」人がやっぱり正統派だなぁと一旦納得してしまうと、うちらが宇多田ヒカルをみるときとは正反対な気がしてな。手の届かない王子様お姫様でいてくれるより、如何に身近で同じ感覚を持っているかという点が、我々の「愛しどころ」なのだとすれば、「アイドル」とか、或いは「スター」とか、そういう枠組とは正反対だなぁと。

他方で壮年男性が若年女子を愛でるときのような「拙さや一生懸命さが可愛い」という目線での「アイドル」像もあるけれど、勿論宇多田ヒカルはそっちの路線でもない。日本語歌詞を作り歌うことにかけてはその仕事に従事する大半から尊敬を集める位置に居る。どこらへんが拙いねんな。MCと歌のギャップという魅力もあるが、それも「両方あってこそ」でしかなく、どちらに夢を見てるということでもない。どちらも素の、ありのままの宇多田ヒカルというだけだ。

アイドルともスターとも違うから、『歌姫ってなんなん』と本人が問い掛ける羽目になった。結局それらどれでもなく、なんらかの「推しの定型」に嵌め込むことも出来ず、ただ私たちは「宇多田ヒカルを愛している」というだけのことに落とし込むしかない。なので、正直これを「推し活」とか言われても、こちらはピンと来ない。もちろん、呼びたきゃ呼んでくれていいけれど、私は返事しないかもしれません。自分のことに思えなかったりしそうでさ。

実際レコード会社の作ってくれたそれなりの定型ルーティンに従って関連商品の購入をしているので、型を全く援用していないということでもないのだけれど、極端にいえば本人が言ってるシンガーソングライターや音楽家といった肩書きさえ無意味に思えてくる。ヒカルが音楽を辞めて、例えば作家になったとしても引き続き応援したい、ついていきたいと言う人がここの読者にも沢山居るだろうから。「声優だけはやめるんだ!」? はい?大きなお世話です(笑)。

なので、もしかしたら、今まで私もずっと「宇多田ヒカルは私のアイドルでもあります」とは書いてきたけれど、今後は書かなくなるかもしれません、と言い添えたくてな今夜は。日本の「アイドルのシステム」に激震が走ってる昨今だからこそ、そんなことも思ったりもするのでありましたとさ。