無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

いったりきたりといきあたりばったり

無意識日記という名を冠するブログとして、ここらへんの発言を取り上げない訳にはいかないだろう。

『意識的なことと無意識的なことのふたつの世界を常に行き来するというのが、私の生きている環境というか、クリエイティブなプロセスでもあって。そういう、ふたつの世界の間を行き来しているのが私なんだなっていうことを最近凄く自覚してます。』

(MUSICA2023年10月号より)

ヒカルの口から『無意識』という言葉が出たときに世界一反応する私としては勿論見逃せない。

ここらへんの「いったりきたり」と、かつて雑誌「mc sister」での連載名にも採用した座右の銘である「いきあたりばったり」の2つを組み合わせると、ヒカルの創造感覚の一端を掴めるようになるかと思う。

実際、これに対して直接的な意味があるとも思わないけど、眠りから覚めるか覚めないかの時間帯って頭の中で見知らぬ音楽が流れがちなのよね。それこそ、無意識と意識の狭間なんすよあの時間帯。寝てんだか起きてんだかわかんないあそこに音楽は雪崩れ込んでくる。なんとかそれを覚えて起きてきてメモしてみて「なるほど、聴いたことない曲だ」となったこともあるので強ち勘違いでもない。あの、「知らない曲を思い出す」感覚って面白いのよね。

なのでヒカルが、意識と無意識の間を行き来するのがクリエイティブなプロセスだというのは、意図して眠ったり起きたりするのに近い感覚なのかなと思ったりもする。

なお、そういう時に流れてくる音楽というのは、既に音楽的に完成されていて無難なものであることが多い。そういう状態になった事の無い人からしたら不可思議プロセスに思われるかもしれないが、こちらからすると納得というか、サプライズより安心という感じが強く、特別感はあんまり無かったりする。「閃きのあるもの」とは違うジャンル、かな。ヒカルもここで生まれた音楽はあまりプロの仕事としては採用しないんじゃないかって勝手に思ってるぞ。あたしは楽しんでるけども。

話が逸れた。いやでもね、自分としてはついさっき「いったりきたりといきあたりばったり」って書き下した時の満足感が強くて今夜はもうこれでいいやと思ってしまって(笑)。ビマラの冒頭三行じゃないけどさ。

最後の「ばったり」がポイントよね。出会い頭の衝撃。あらこんなところに牛肉が♪じゃないけれど(牛肉買って存在忘れてるてどんだけセレブやねんとCM放映当時ツッコまれたものだが)、「でくわしたクラッシャー感」が得られるかどうかがクリエイティブの要点なので、最初に「いきあたりばったり」と聴いた時の「嗚呼、宇多田ヒカルって無計画に物事を進めるんだな」と思った第一印象とは異なり、これはつまり「閃き」や「創造的瞬間」に実際に巡り会おうという意志と自覚の話だったのかもしれないなと過去を見つめ直してる所なのでありましたとさ。そのためにあっちとこっちをいったりきたりしてるんかと。輪廻転生もあの世とこの世をいったりきたりだしな。ヒカルの持ち続けている抽象的なテーマ性への理解がまたひとつ深まったかもしれません。