無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

何色でもない…約束でもない?


『何色でもない花』、1番の歌い出しは、前回みたように、ドラマのタイトルと歌のタイトルを掛け合わせた


『君がくれたのは 何色でもない花』


だった。一方、2番の歌い出しはこんな風。


『朝日が昇るのは 誰かと約束したから』


漢字は合ってるかどうかわからないけれど、これが1番冒頭とほぼ同じメロディで歌われているからには同じくらい重要なセンテンスな、筈。



しかし、宇多田ヒカルリスナーはここを聴いて即座に『誓い』を思い出したのではないかな。同曲には


『約束はもうしない

 そんなの誰かを喜ばすためのもの』

『約束でもない 誓いだよ』

『朝日色の指輪にしよう』


という風に、『朝日』と『約束』が出てきていたからね。そして、その『誓い』では、ご覧の通り『約束』は、『もうしない』『でもない』と否定される形で扱われている。それが、今回は「朝日が昇る理由」という、かなり大層な役割を担っているのだ。


ではヒカルは、今回『誓い』では否定的な扱いで歌った『約束』を、今回の『何色でもない花』では肯定的に歌っているのだろうか? つまり、この歌でヒカルは、以前とは宗旨替えしちゃってるってこと?


多分、そうではない。もう一度歌詞をお浚いしてみる。『誓い』の歌詞では


『約束はもうしない

 そんなの誰かを喜ばすためのもの』


と歌っているのだから、約束って誰かを喜ばす事が出来るのよさ。…だよね? 恐らく『何色でもない花』での『約束』は、相手のことを喜ばせている。だから『誓い』とは矛盾していないのです。


そして、


『朝日が昇るのは 誰かと約束したから』


ここだけを聴くと、まるで


「私が誰かと何かを約束をしたから太陽が東の空に昇ってきたのだ」


という、「私がそう思ったら実際に世界がそうなる」タイプの、かつてのセカイ系みたいな解釈になっちゃいそうなんだけど、勿論ここではそういうことを言っているのではなくて、


「“今日の私に”朝日が昇るのは 誰かと約束をしたから」


なんですよね。私がまた次の1日を生きて新しい1日の始まりを見届ける事が出来ているのは、そういう約束をしてくれた人が居てくれたからで、だからこんなに嬉しいことはない、と。恐らく、「明日も一緒に生きようね。約束だよ。」みたいな約束なんだろうね。そう、その約束によって、この私は、これ以上なく喜ばされているんですよ。「新しい1日をまた生きようと思える」という最上級の至福を以てして。まさに『約束』は『誰かを喜ばすためのもの』になっている。


そう捉えると、この『何色でもない花』の2番冒頭の歌詞は、『誓い』の最後の部分


『日の昇る音を肩並べて聴こうよ

 共に生きる事を誓おうよ』


と殆ど同じ事を歌っている事がわかる。というか、かなりの人が自然にそう解釈してた、かな? 『誓い』の方では自分自身に対する決意として、『何色でもない花』の方では相手の『約束』という名の尽力に感謝して、という目線の違いはあるけれど、どちらも二人で共に生きようとしている事にかわりはない。なので、ヒカルは宗旨替えなんてまるでしてなくて、ずっと一貫しているのだと思いますよ。



そして、ここの『誓い』の特徴的な、本来なら静けさの中に眼で捉える眩い朝日の様子を「日の昇る音を聴く」と耳で捉えるこの表現、「君が心をくれたから」の劇中で、視覚を失ってもまだ聴覚を失ってない人が新しい1日を迎える姿として再現されてしまう可能性があるのですよ。もしかしたらこれ、草ヶ谷プロデューサーが


「今作の企画構想段階から、“このドラマの主題歌は宇多田ヒカルさん以外いない”と私の中で考えておりました。」


ってコメントした理由のひとつになっているのかもしれないよ。つまり、彼の脳裏には『誓い』の歌詞が浮かんでいたと…だから「宇多田ヒカルさん以外いない」と考えたのでは? はてさて、どうなんでしょうねぇ??